他人に優しい君へ


 浪人したことをきっかけにだいぶアイデンティティーが崩壊したと思う。

 勉強のやり方が完全に間違っていたと気付いたのをきっかけに、今までの人生で僕が正しいと考えていたことがことごとく、「よく考えたらどうでもいいな」と根拠をなくしていった気がする。だからついに先日、『じぶん・この不思議な存在』を買ってしまった。某フリマアプリで。


 その本の状態について、「未使用に近い」と設定されていたのだけど、購入ボタンを押してしばらくすると発送者から「よく見たら書き込みありました、大丈夫ですか?」と連絡が来た。「特に気にしないので大丈夫です」と返して送られてきた『じぶん・この不思議な存在』、死ぬほど書き込みあった。赤いボールペンで    やたらめったらに引かれた傍線や、○や△で囲まれた接続詞、大事だと判断したのだろうセンテンスには☆印、ページの余白には「化粧しつれい」「(別の自分が存在していた?)」などの注(注と呼べるほどたいしたものではない)が上手くも下手でもない字で書き込まれている。
 多分高校か大学の課題図書だったんだろうなと想像した。
 本と一緒に手紙が入っていた。書き込みに気付かず出品してしまったことを侘びる旨が一生懸命書いてあった。


 この某フリマアプリは、取引終了後に、互いに相手を評価し合う。良い・普通・悪いのボタンがあり、どれかを押してあげるのである。コメントを付すこともできる。相手から受けたその評価とコメントは以後自分のページで公開され、そのまま自分の信用度を表すステータスとなる。
 実をいうと今回の『じぶん・この不思議な存在』、書き込みだけでなく1度濡れた痕もありページがなみなみでカピカピである。なんなら思いっきりコーヒーこぼした跡もある。未使用に近いという設定からしたらうんこみたいな状態の商品である。

 でも、手書きの手紙がついている。


 インターネットが発達して、リアルに対するバーチャルの世界の占める割合も大きくなってきたと思う。スマホでさっさと処理していくフリマアプリの取引相手なんて、顔も見えないし自分の人生に関わることもない。本当に人かどうかもわからない。態度が悪ければちょっとイラッてくるだけの存在にすぎない。しかしそういったバーチャルな世界の一片にすぎないと思っていた相手から、ふと手書きの手紙という、その人個人の存在がいやがおうにも立ち上るものが突然投げ込まれると、どうだろうか。頭は急激にリアルな世界に立ち返る。

 手紙の質感。スマートでクリアな画面の見やすく画一的なフォントに慣れたこの頃、手紙は選んだ便箋の手触り、インクの色、筆跡、どの部分からもその書き手個人のたしかな存在を意識せざるを得ない。文をしたためる所作を経て伝達されるのは、文字による情報にとどまるものではないのである。これを受け取り思ってしまうのは、結局こういうリアルなものが一番安心するな、ということである。

 そうするともう、カピカピでなみなみのページも、コーヒーの跡も気にならない。書き込みも全然許容できる。結局人は心なのである。
 だから僕は、責めるつもり、ないですよという意味を込めて、「書き込みがあるということでしたが、よく読まれたということでこちらも大切に読ませていただきます。」とコメントし、good評価を押しておいた。たしかにその人の信用度を参考にするだろう今後のその人との取引相手には迷惑な話だろう。しかし、商品の状態に見合う評価をつけなければならないという義務はない。裁量はこちらにある。そして商品の状態以外に、相手の心遣いを評価の対象にしてはいけないという決まりもないはずである(規約を確認したわけではないけど)。それに、あの手紙の書き方からすれば、今後は気をつけてくれるに違いない。今回はまだ初心者なのだから。今後気持ちの良い取引を重ねていってくれたら、それで良い。


 後日、その人の出品ページをなんとなく見てみると、取引回数が3に増えていた。そしてその新しい取引相手に酷評されていた。

 「『未使用』ってあったからあの値段で買ったのに、破れており、使用感があり、とてもショックで残念です。」

 対抗するようにその人のプロフィール欄の自己紹介が更新されていた。

 「先日の取引で、新品未使用にもかかわらず使用感があったという書き込みがありましたが、こちらから確認の連絡をしたのに返事がなく、非常に不快な取引でした。気になることがあればなんでも気軽に質問してください」

 僕以外の人にもボロい本が売られていたらしい。

 平均評価を一気に下げた辛辣なコメントと自己紹介欄での応酬。いい人ぶった僕のコメントがアホみたいに浮いている。
 僕はなんだかとても恥ずかしい気分になった。
 「やっぱメ○カリってくそだわ」とそっとアプリを閉じた。


 本当にくそなのは僕である。僕は気付いていたのである。あんな紳士ぶったコメントを書いたのは手紙に感動したからなんかではないことを。

 付けた評価とコメントはそのままずっと公開され残り続ける。僕がもし低い評価と出品者を非難するコメントを書いたとして、僕が他人を批判したという事実がそのままずっと残り続けるのである。それが単純に嫌なだけだったのである。そして何より、粗悪な状態の商品を掴んでしまったこと、損してしまったことを認めれば自分がかわいそうだから、なんとか正当化したかっただけなのである。そうして、「届いたのはボロい本だけど、良い取引だった!」と自分を誤魔化していたのである。
 しかし、はっきりと低評価をつけた新たな取引相手の出現により僕の作った虚構は暴かれ、僕は哀れな自分に向き合わざるをえない。登場人物全員がくそである。誰も幸せじゃない。そして低評価を押した人は別にくそではない。

 

  他人の落ち度を許してあげる行為は、一般的には「優しい」行為のカテゴリーに分類できるだろう。「いいよいいよ、気にすんな」と言ってくれる人を「ああ優しい人だなあ」と思ってしまう気がする。ただ、一般に優しいと言われている行為が、純粋に相手のことを想った行為であるとは限らない。

 もっともそんなことは今さら大発見のように取り立てていうものでもなく、大体の人がわかっていることだと思う。ただ、気を付けた方がいいなと思ったのは、自分がした行為について、本当はどういう意味でしたのかを自分できちんと把握しておかなければ、いつの間にか自分でもその表面に騙されて、ふとしたときに予想外のダメージを受けることになるということである。他人に騙されるより自分に騙される方が、感じる虚しさと恥ずかしさは大きいものであるなあと、そのコーヒーこぼしたあとを見ながら思った。

 


 『じぶん・この不思議な存在』をはじめとした多くの評論文を高校の現代文で読んだものだけど、当時は接続詞とか段落ごとの関係とか気を付けながら評論文を読むたびに、こんな「まあ言われてみればそうかね」としか思えない事柄について小難しくごちゃごちゃ書いて、しかもいい歳した大人が、この人たちは何者なのか、暇なのかな、と不思議で仕方なかった。
 大学に入りいつしか自ら新書とか求めるようになり、はしがきから最後の章まで読むようになると、さすがに高校時代のあんな一部だけが切り取られて提示された文章ではなにも伝わらないのも当然だと思うようになった。ちゃんと読んでみると、いろんな視点や考え方があるものだなあと面白くなる。
 今、高校生の僕に「結局現代文書いてる人は何をしたいの」と聞かれたらこう答える気がする。「まあ言ったら好き勝手ブログ書いてるみたいなもんでしょ、お前ブログ書いたことある?楽しいよ。」
 ブログにしろ本にしろ、誰かが何かを発信したくて書いた文章は面白い(ひどいものもよくあるけど)。早く受験終わらせて、ぶんせき本の参考答案以外の文章を落ち着いて読みたいものだと思ってブログを更新してみました。

 長々と読んでくださり、ありがとうございました。

 

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

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