圧倒的派遣バイト 旅館の仲居編

 こんにちは。
 僕はいま,実家の近くのある老舗温泉旅館で住み込みで仲居のバイトをしている。先月から今月末まで,40日間の短期派遣バイトである。

 

 ただ,うんこみたいな職場であるため,人がどんどん辞めていってしまったらしく,僕が入ったときにはすでに圧倒的人手不足であった。入って数日後には,同じ派遣会社から来ていた唯一優しく仕事を教えてくれた女性も辞めてしまい,入ったばかりで何もわからない状態の僕も貴重な戦力としてカウントされていた。ふざけるな。

 最近の実働時間は12時間を超える。13時間に達する日もある。募集情報にあった「8時間勤務のシフト制」などまるで原型をとどめていない。このクソ残業も金を貯めるためだ,今日もかなり貯めたぞ,と自分に言い聞かせながら,ようやく40日の折り返しを迎えた。

 業務内容は午後が夜の宴会や個人の夕食の準備,料理の給仕,片づけ,翌朝の朝食準備であり,午前は朝食の準備,給仕,片づけ,夕食の準備がメインである。それぞれの合間にチェックインした客の部屋案内,チェックアウトする客の見送りがある。文章に書くと簡単そうだが,実際は重労働である。それなりに格式高い旅館であるため食事もかなり豪勢であり,食器の種類と量が尋常でなく多い。料理も先に配膳したものに加え,後出し料理をそれぞれの客席のもとへ次から次へと運ばなければならず、板場と食事広間の往復に駆けずり回ることになる。しかもその合間合間に客が「すいませーん」とか言って飲み物を注文してくるので、もうてんてこ舞いで悲鳴が上がる。客が引き揚げた後の広間を見渡し,この後の残飯処理や食器の回収,机のふき掃除,さらに翌朝の準備を思うとその場にへたり込みたくなる。


 一緒に働く仲居はベテランのばあさんやおばさんである。前はもっと派遣で来ていた人たちもいたらしいが「ああ,とんだよ」とのことである。前述の女性も,「ここの職場は共同作業に見えて実際は完全な単独プレーだから」と疲れた顔で言って数日後に辞めてしまった。
 実際まあ親切ではない。人手不足でみんな疲れていてイライラしているのもある。最初はばあさんたちが何やっているのかを見てメモをしようとしていたけどすぐにそんな余裕がないことに気づいたので頭で覚えようとしている。ばあさんたちのイライラが募るにつれて教えを乞うのに消費できるばあさんの残機が減っていく。出来るだけばあさんの作業を中断しないように、見よう見まねで仕事をする。よかれと思ってやったことが実はやっちゃいけないことだったらしくばあさんが発狂する。残機がどんどん減るのが分かる。ああもう残機ゼロだ,もうわからないことがあっても聞けねえ,となったころに疲れ切ったばあさんから発せられる指示が,「ほら,そっちにあれがあるから,あれしといて。」
僕「??????????????????」
 この前,僕の並べた釜が並べ方が違ったらしく発狂された。また,僕が給仕した後出し料理が違うコースの客に出すものだったために,その担当だったちがうばあさん仲居が「ここの料理引いたのはあんたかね!!!!」とわざわざ僕の反対側の広間から鬼の形相で殴りこみに来た。

 もともと僕は鈍くさい自覚はある。仕事内容を一から教えてもらえるわけでもなく,かといって見て盗むには僕の力量では無理であり,連日ばあさんの残機を減らすのも精神的につらい。それなのに8月の激務期に入って労働時間が契約書を無視して延ばされた。無駄に労働時間を延ばすぐらいなら僕みたいな派遣も時間内に効率よく動ける工夫をするのが先ではないかとも思う。
 意を決して支配人に「派遣用の作業手順のマニュアルを作ってください」と直談判に行った。返答は要旨,「マニュアルがないのはオーナーの方針だから,俺の力では無理だ。なんなら俺が欲しいぐらいだ」。
 なんと支配人も着任して一年経っていなかったのである。僕はそうですか,と言って残り日数を耐える決心をした。

 

 そうはいっても得るものは大きい。料金が高いだけあって客層もいい。「美味しい」「ありがとう」「頑張って」と言ってもらえる仕事は,人格を無視される倉庫のバイトとかと比べるとやっぱりいい。たまに年配の客はチップをくれる。おばあさん客から5000円をもらった時には,さすがに頑張ろうと思った。
 給仕のとき客に「高校生?」とよく聞かれる。「今年26です。司法試験の結果待ちをしています。」と高校生かと思ったら26とかエスターみたいだなと思いながら現在の状況を話す。弁護士さんになるの?とたいていきかれる。「ええまあ,できたら裁判官になりたいなあなんて思ってます、へへ」と言うと,それなりに多くの人が法曹界に物申したいことを抱えているみたいで,死刑制度はどうなのか,裁判員裁判制度はどうなのか,俺はねえ,人が人を裁くんじゃない,法が人を裁くんだと思うんだよ,など様々のたまう。皆最後には,頑張ってくれな,と言ってくれる。

 この前二人組で来ていた中年のおばさん二人と上記のやり取りをして,僕がありがとうございます,とその場を離れたとき,後ろから,「いろんな経験しなきゃね」と二人でささやきあっているのが聞こえてきた。

 「いろんな経験」。僕は基本的には人生は経験が全てだろうと思っているところがある。嫌な経験や嬉しい経験をすればするほど、他人に対する自分の接し方や他人の利益に対する配慮が良いものになっていくのだろうと基本的には思う。この仲居バイトは糞バイトだけど、この糞バイトを経験していない自分と経験した自分だったら、経験した自分の方が魅力的だと思う。だから、毎日毎日「マジでくそみてえな環境だなこのクソ旅館」とか悪態を心のうちでついているけど、同時に「いろんな経験しなきゃね」とささやいていたあのおばさん客の声も聞こえてくるのである。

 経験といえば、この先も思い出しそうな事がある。僕より2週間ほど後に入ってきた(かわいそうに、入ってきてしまった)主婦の人がいる。その人が入って早々に一人で1つの宴会場を仕切らされることになった。「入ったばかりの人に何も教えずいきなりやらせるとか、ホントやべえなこの職場」と僕が思っていたら、その人は「そしたらこの『研修中』の名札(研修中の文字と共に若葉マークがプリントされている)、外していかないとな」などと言う。

 初心者マークは「上手に動けなくてもごめんなさいね」的な免罪符だと思っている僕は自らそれを外すなんてそんなリスキーなことをなぜするのか不思議に思って尋ねると、「お客さんからしたら、給仕しているのが初心者一人だけだと思ったら、嫌だろうから」だと言う。僕はますます不思議に思い「それは初心者を一人だけで配置せざるをえない経営者が無能なだけであって、従業員個人がみずからの負担にすることはないのではないか」と述べると、「ホスピタリティはお客さん側に立つことから始まる」とのことであった。

 その人は初心者といえど派遣の住み込みの経験は豊富なので、一瞬そういうものかと思ったけど、でも客のため、を言い出したらきりがないとも思って「でも、、」となお食い下がろうとしたけど、「初心者マークを必要に応じて外す」というのは社会の常識でもあるらしかった。「やっぱり僕はまだ一度も社会に出たことがないから、感覚がずれてるのでしょうか。」と聞いたら、「社会に出たらわかってくると思う」と言われた。

 さらに加えて僕のような「そういう経営者の側に立った発想はやっぱり法律を勉強してる人って感じだなって思ったよ」とも言われた。それが肯定的な意味で言われたものでないことは僕にもわかった。

 世間ではよく「法律家の常識はズレてる」なんて言う。そんなこともないだろうと思ってはいる。ロースクールの同級生たちの顔ぶれを思い出しても、常識人が多かったと思う。しかし同時に、ここのようなくそみたいな職場でいろんな人間に関わった経験をもって将来法律家になることが出来たら、なんとなくどっかでアドバンテージになるのではないかとも思う。法律家になれるといいのだが。

 

 このように、仲居糞バイトの良いところと悪いところの比率は数字にすると実に1:9であり、なんだかんだいって一刻も早く期間満了して辞めてえと思っている。

 

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